天気:曇り
睡眠:そこそこ良好
起床:13:00
体調:脱臼した肩の稼働領域がだんだん増えてくる。大事じゃなくてよかった。夜から外出。1H以上の外出は厳しい感じ。
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冬。
週末の名古屋通いを始めた。
いつもふらふらになりながらではあったものの、どうにか、通っていた。
どこかへ出かけたり、遠出したり、ドライブしたり、旅行したり。
しょっちゅう喧嘩をしたり、彼の周りの人たちと飲みに出かけたり。
その合間に、生け花のお稽古に通い、花展に出展したりしていた。
起きれないこともあったし、ふらふらではあったものの、日常生活は営めていた。
空調の関係で体調を崩したり、相変わらず婦人科系の調子はあまりよくはなかったものの、起きられない、というところまでは行っていなかった。
ちょいちょい周囲の結婚話が彼との間で持ち上がったり(どちらかというと主に向こうからそういう話が出てくる)、新婚の先輩と引き合わされたり、ということが割とあった。
私自身は、結婚、ということを人生の中であまり考えてこなかったので、正直なところ、どっちでもよかった。
ただ、無言のプレッシャーをときどき感じていたことは確かだ。
3月。
仕事も佳境に入ってきて、繁忙期になると胃と身体がきりきりしてくることがよくあった。
仕事をしていても体力が持たず、途中で席を外して休憩することもあった。
何か新しいことを、という気力はなく、日々、きりきりと緊張していく身体と脳とをやりくりしながら、なんとか生きていた。
緊張で眠れない日が続く。
仕事が終わってからも、緊張感が解けず、夜、眠ることができない。
身体を休めようと思ってもなかなか休まらず、疲労はどんどん溜まっていった。
左の耳が聞こえずらくなり、顔の左側にはニキビや湿疹のようなものができ、いつもなら治るものが徐々に治らなくなっていった。
肌が荒れて耳鳴りがする。
しばらく、その状態が続いた。
春はいつも調子が悪くなるが、それにも身体は慣れ始めてきていた。
体調が悪くなるのと同時に、夜中まで電話で彼と喧嘩をする日も頻繁に続いた。
心の叫びは、頼むから寝かせてくれ、だった。
あちらも、状態がわかっていないわけではない。
が、放置されると途端に不安定になる感じだった。
そして私は、割と放置プレーをする。
単に、人のことまで頭が回っていないだけなのだが。
ある日、夜中、激しい歯ぎしりをしているけどあなた大丈夫なの、と母に言われた。
しかし、大丈夫もなにもやるしかないのだ。
それ以外の、選択肢が今の私にはない。
その回答に、母は呆れた。
何を思ったのか、ときどきお弁当を作ってくれるようになった。
それはとてもありがたかった。
調子が悪くなければ自分で冷凍食品をつめてお弁当を持っていっていたのだが、この時期、そこまで体力が回らず、毎日コンビニや外食になっていたのだ。
日々、淡々と会社に通い、辟易とした、鬱屈とした日々を過ごしながら、そんな不安定な季節も通り過ぎ。
新緑の風が心地良い5月のある日。
突如、胃痛に教われて動けなくなった。
胃が締め上げられるように痛く、内蔵が絞られる。
少し落ち着つくと、1時間後にまたその痛みがやってくる。
お下品な話で恐縮だが、上からも下からも身体にいれた全ての食べ物や飲み物が出てくる。
水を飲んでも嘔吐する。
痛みのインターバルを見計らって病院へ行くと、”急性胃腸炎”だと診断された。
ストレスか、細菌性か。
前日の夜に鯖を食べたので、どちらの可能性もある。
あるいはその両方ということも。
治らない顔の湿疹。
聞こえずらい耳。
急性胃腸炎。
調子の悪い婦人科系。
一応、急性胃腸炎を患う前にようやくわたしの希望が通り、席替えが実施されて上司の席からは遠くに配置された。
ただし、別の問題が発生した。
やっかいな女性社員と席が近くなり、結局のところ、右耳がダメになるか左耳がダメになるかの違いだった。
それでも以前よりは雑務も改善され、とりあえず仕事の支障は減った。
(と思う)
しかし、これらの要因と急性胃腸炎を経て。
わたしはひとつの結論に至った。
ーーーーもう、ここへは通えない。
特殊な業務をしてきてしまったため、汎用性の高い実務のスキルがない私は、今までここを出たところで仕事ができないのではないかと思っていた。
しかし、それ以上に、体調面で背に腹は帰られない。
ーーーーーーーーーーーーー私は、異動を願い出た。