Thank you,平成. Hello,令和☺︎

触発されました。

2つのエントリーを読んで、私も書きたいな、と思って平成の振り返りをしたらとても長くなってしまいまいした。

 

hase0831.hatenablog.jp

 

nennennen.hateblo.jp

 

 

はてブにあがってくるエントリーやブログで、平成のふりかえりをしているエントリーを読んだ。

個人的には改元ってお祭りみたいなできごとなの?と思っていたのだけど、*1いいなあ、たのしそうだから私もちょっと書きたいな、という気分になったので、自分の平成のふりかえりをしようと思う。

 

 

平成のはじまり(1989〜1998)

こども時代

私はかろうじて昭和生まれなのであるが、当時の記憶はほとんどない。

平成がはじまるすこし前に弟が生まれて、たぶん我が家はてんてこ舞いだったと思う。

自営業に近い業態のぎりぎりサラリーマンの父と、いつもなにかの仕事をしている兼業主婦だった母、私と3つ下の弟という平均的な家族構成。

父方の祖父母は遠方であったが、母の実家は同じ市内にあったのでそこそこ子育ての手助けも得られるかと思いきや、彼らは家事などの家のことは壊滅的にできないという人たちで、どちらかというと一人っ子である母の援助がなくては生活できるかあやしかった。

結婚して家を出て家庭を作っていたけれど、幼い子供を2人抱えて、深夜に帰ってくる父親を待つ生活はいま考えると結構しんどかったのではないかと思う。

弟が生まれるまではひとりっ子でありったけのわがままし放題で育った私は、弟ができたことにとまどいつつも、ちょっとずつちゃんとお姉ちゃんになっていき、マイペースで強引でジャイアンみたいなベースの性格ではあれど、人並みのコミュニケーション能力はたぶん身につけられていたと思う。

当時住んでいたマンションには同じくらいの年代の子どもがたくさん住んでいて、マンションの庭や近所の公園で遊んだ記憶があるが、ゴーイングマイウェイな性格は変わらず、悪い意味でいい性格だったというエピソードが山のように出てくる。

男の子と遊ぶことが多くて、おてんば&トミカプラレールミニ四駆みたいな遊びから女の子遊びのおままごとやリカちゃん人形遊びまで幅広く、今エピソードを聴くと、恥ずかしいやら、おいおい…って思うやら....,。

よくそれで集団生活にちゃんと馴染めたな、という感じだ。

近所の幼稚園から小学校に進んで、いろいろな幼稚園や保育園から入学してくるの子達とミックスされてそこそこ多様性も保たれたニュータウンの平均的な小学校で、友達にも恵まれて楽しい学校生活を送った。

転機が訪れたのは1994年のこと。

母方の祖父母が年齢を重ねて体が弱りボケはじめたことがきっかけで、そちらの家に引っ越すことになった。

ちょうど母も働いていたので、家にひとりで私を残しておくのが心配だったのもあったのだろう。

当時弟は保育園に通っていて、私は2年間学童保育に通ったあとにそれをやめて、家で留守番していた。

もっともお稽古ごとに通っていたので、あまり家にいる時間も多かったわけでもなかった。

保育園から弟を拾って仕事から疲れて帰ってくる母を見て育ったので、なんとなく大変なのがわかっていたからか、大人びた子どもに変貌していた。

朝7:00に自分で起きて、トーストを焼いてズームイン朝のニュースコーナーを見たあとに*2母親を起こす。そして着替えてからひとりで集団登校の待ち合わせ場所へ行っていた。

学校から帰ってきてからはのんびりお茶したり、本読んだり、こっそりお母さんのハイヒール履いてお化粧したりしつつ、帰ってくる頃までにお風呂の掃除をしてご飯を炊いて洗濯物を取り込んで畳んでおくくらいには家のこともしていた気がする。

そんな状況であったので、母方の祖父母と母のそれぞれの利害がある程度一致をみて*3サザエさんの生活をスタートさせることになった。

 

 

転校と中学受験 

小学校高学年にはじめて転校を経験したのだが、これが大変だった。

今までのミドルな家庭がほとんどだった学校から、上から下まで様々な家庭が混ざる昔ながらの混合型の学校への転校だったのと、人に合わせるということをあまりしないジャイアンみたいなゴーイングマイウェイの性格が災いして、クラスからはじかれるのは必然だったように思う。

明るい性格の快活系女子だったのではじめはそこそこクラスに馴染んだ。

ところが、新しい学校はどちらかというと昔ながらのカルチャーで閉鎖的で昔からの人間関係が根付いている。

それに加え、どちらかというと古い産業に依存して栄えたタイプの街であったのが私にとっては不運だった。

山一証券拓銀日債銀の破綻した時代の空気と産業構造の変化をモロに受けて*4、クラスの人間関係はいわゆる格差の拡大の進行を体験することになり、一気に難しくなっていった。

となりのクラスは学級崩壊していたと記憶している。

また、ゆとり教育が検討されて実際に導入されはじめた時期であり、公教育への不安が親世代の間で広がっていた時でもあった。

その頃、中学受験をできるかできないか金銭面と学力面でギリギリのラインの家庭は、教育費に振り切る選択をしたところが多く、当時のクラスのだいたい1/3くらいが私立の受験をするような環境になったのも結果的に学校の空気と運営を難しくした。

いま考えると、同じような成績なのに親の資力がストレートにモノをいうという現実を間近で見せつけられる方はたまったものではなかったと思う。

私自身がクラスではじかれたきっかけは、何かのときに既存のルールをすっ飛ばしたことだと思う。

もともとしっかり馴染んでいたわけではなかったが、弱い者をはぶいていく空気に迎合することを良しとできない頑固な性格で、これ以上この地域で生きていくことはで難しいという結論を出したのは10歳とか11歳くらいの時だ。

頭が良かったわけでも実家がお金持ちであったわけでもなかったが、早い段階で地元の中学に進むことを拒絶した。

母の母校でもある学区の学校がマジでやばいことは昔から有名であり、母も私がそこで生き抜けるかは微妙だと踏んでいたフシはある。

両親の間で話し合いがもたれた結果、

“中学から大学まで私立で行くのはきついけど、中学高校で私立に行くか大学で私立に行くかは本人に選ぶ権利がある”

(どっちか国公立ならok。あとでこれは破ることになるのだが…)

というところで落ち着いて中学受験をすることになる。

 

おバカな部類であろう娘の将来を案じたのか、折角お金をかけるならと地元の塾へ行かせずに、ゴリゴリの進学実績(御三家クラス)を出していた小さな塾に放り込まれることになり、めちゃくちゃしごかれた中でマイペースを貫いた結果*5、滑り止めで受けた偏差値は高くないが歴史と女学校のプライドを持つ女子校に進学することになる。

とにかく、地元の人間関係から脱出することに成功し、窮屈な知り合いの目線もなくなって自由になるのだ!と思ったことを覚えている。

同じ頃にはじめてインターネットなるものに触って夏休みの自由研究として発表した結果、その自由さに魅了される。

塾通いをしていたのでPHSを持ちはじめたのもこの頃だった。

すごい勢いで変化して行く時代の空気を感じていたのを記憶している。

うねってるなぁ〜という感じで、いろんな意味(社会階級の移動とか)で、アップダウンが激しくなるのだろうなとなんとなく思っていて、まあそういう時代に生きているのは良くも悪くもしょーがないなと思うようになっていった。

 

 

ミレニアムイヤー前後(1999〜2004)

女子校ライフ

すべり止めで入った学校(しかも女子校!)だったので、はじめはブーたれていたのだが、入った学校は歴史と伝統とプライドのある女子校*6で、良くも悪くも根性から叩き直されることとなる。

とは言っても、特段厳しいわけではない。

どっちかというと普通に学校生活を送っていくと、ふつうの世間一般で通用するルールと常識がインストールされるので、のびのびやれて自分の性分には合っていたと思う。

ちかくの街や通学経路などあちこちに卒業生がいて、制服が有名なので通学で街を歩くと卒業生に声をかけられることも多かった。

電車などで下品な行為をしていると祖母くらいの年齢のOGから苦情の電話が学校に入ったりするので、周囲の目線もきちんと考えるようになる。

通ってくる子は自営業のお家の子や大企業のサラリーマンや士業といったタイプが多かったようだけども、通ってるときは全然そういうことを知らなくて、守られたエリアで落ち着いた学校生活を送れる場所であった。

もちろん、思春期の多感な時期の女子ばかり集めているのでいじめや問題はしょっちゅう起こる。

でもそんなに賢くないからか*7、大問題に発展することはなかった。

中学の前半は母が運動部に入れというので上下関係の厳しい運動部に所属していたのだが、頻繁に先輩とケンカして問題を起こす問題児であった。

ケンカの原因は意味不明な部活のルールに文句を言ったり説明を求めただけだと思うのだけど、運動部のルールは説明できるルールなんてあって無いようなものである。

文句言いで目立つ性格だったため、1つ上の先輩には目をつけられやすくしょっちゅう衝突していたのだが、最終的にきちんとやることをやっていない人に説教されることに耐えかねて1年で啖呵切って退部することになる。*8

 

入ってから知ったのだが、この学校はそこそこゴリゴリ勉強をさせる学校だった。

私立によくある成績別のクラス分けをするので、勉強する方に入ると勉強が苦手でなければ気楽なものである。

数字が人格とまではいかないけど、成績がよければいろんなところが多少破綻していてもさしたる問題はなくて、クラスメート達は頭いいけど変わってる子だなぁくらいの判断して放っておいてくれるので*9、小学校よりは確実に生きやすくなった。

特段懸命に勉強したわけではなかったが、中学受験のスパルタ勉強が効いたのか、中学高校は勉強の苦労はあまりなかった気がする。

逆にいろんな子にどうやって勉強してるのか質問されることも多かった。

授業は寝ていることも多くてノートが真っ白なこともあったせいかもしれないけど…

ただ単に、私はやりたいことを追求していただけだった。

好きな本を読み漁ることも、長い文章を思うままに書くことも、歴史を追っていくこともだいたいこのへんで培った素養だ。

中学2年・3年とクラスの担任(同じ先生)とは笑っちゃうくらいウマが合わなくて、教室内で問題が起こると大概私が呼び出されるくらい職員室の説教される側の常連だったが*10、評価は真っ二つに割れていた。

成績は悪くなかったので、アイツ面白いなと思ってさり気なくフォローして泳がせておいてくれる先生と、徹底して人格を若くて変われる今のうちに変えた方がいいとする先生といて、成績表は点数以外のところが悪くて評定は安定しなかったけど悪くはなかったはずだ。

運動部をやめたあと、余った時間とエネルギーの解消と、ルールを変える側になろうと思いついて生徒会に潜り込んだ。

生徒会役員は選挙で選ばれるのだが、当時(中2)の担任と相性が悪く、立候補したのがバレたら阻止されるだろうと予測して担任には秘密裏に立候補して通過したのが原因で、選挙の規則に”生徒会に立候補するものは担任に相談すること“と追記されたのもいい思い出…(たぶん)。

初回以降は、生徒会顧問の先生が担任に直接フォローしてくれるので立候補にするのに苦労しなかった。

その後、きちんとやることはやるタイプだという評価を受けて、卒業するまで生徒会活動には携わるのだが、これはなかなかできない経験をつめるので楽しかった。

若い時から組織をどうやって動かすのかみたいなことを、実際に自分の手を動かしながらできるのでかなり楽しい活動だった。

この時代のことがなければ、今住んでいる街に住むこともなかったから、人生ってなにがきっかけでどう動くかわからないからおもしろい。

 

 

また学校のなかの安全な範囲での活動に飽き足らず、当時少し変わった通信教育を受けたことがきっかけで、インターネットにのめり込んだ。

きっかけとなったのは電塾というシステムである。

新しい技術だったインターネットを使った通信教育のソフトで、基本は勉強するためのソフトであるのだが、ある程度制限がかかったなかで全国のさまざまなの子たちと繋がることもできる不思議な空間で、これをきっかけにしてインターネットにのめり込んでいった。

チャットで夜ごとおしゃべりしたり、チャットで出会った人と遊びに行ったり*11、ホームページをつくって思いついた文章をつらつらアップしたり、オタク活動にも足を踏み入れて一環として2次創作(小説)を書いたりと様々な活動にのめり込んで、リアルとネットの別人格を行ったり来たりするのが楽しくそれなりに充実した時間を過ごしたように思う。

高校生になるころにはクラスの携帯電話所有率は100%になっていて、以前よりもも安価で通信が利用できるようになっていた。

 

 

オフライン回帰のSNS時代(2004〜2015)

大学時代

中学〜高校のあいだはある程度ごりごり勉強したが、いかんせん東大をねらえるレベルまでに到達しなかった。

進学にあたってひとつ問題が起こる。

学費を先食いしたので”国公立“に行かないと大学に進学できない問題である。

しかも”現役で“、という条件付き。

都会は楽しい。

それは6年間でよくわかっていた。

キャンパスライフは都会で過ごしたい!

都会の国公立には届かないけど、どうにかしたい。

自分の親なので、進学の決定権を持つ父が自分を上回る頑固親父であることはよくわかっていた。

高校卒業前の2年のあいだ話していて、有名私大は絶対にダメだというと思うけど、とんがっている私大に行きたいって言って首を縦に振るかどうかは5分5分くらいかなぁ、という感じ。

国立大学は受けて落ちたが、すべり止めとして受かった私大に進学することになる。

2ヶ月くらい毎晩プレゼン攻撃をしたり、説得工作をして根負けしたのと、多少余裕があったからかもしれない。

 

大学に進学してから、真面目に勉強するか?と言われれば、まあそんな訳はないのである。

・4年でストレートに卒業すること

・これ以上の学費以外の金銭的援助はしない

という2つの条件を守ればよくなったので、大学生になってはじめの2年はオタク生活を満喫するためにひきこもり生活を謳歌した。

家にいるときもあれば大学の図書館や部室にいることもある。

でも授業は最低限しか出ない。

夏と冬は朝からコミケに行ったり、声優のライブに行ったり。

ぎりぎりゆるい空気が流れていた終わりの時代だったので、テストができれば単位は取れる、という感じの科目がそこそこある学校だったのである。

大学ではごりごり勉強するタイプから全く学校に来ないでバイトに熱中するタイプまでいろんなタイプの学生がいたが、全体的に見るとのんびりした校風だったと思う。

のびのびした学生が多くて、突出してとんがったタイプはいないけども、それぞれが好きなことを好きなようにやっていた。

高校3年間のあいだ村上春樹の全集を読んで以来、そのスノッブの空気に憧れていて、実際そういうキャンパスライフを送った。

商経済系の学部に進んだのに、1年の時の半期のゼミは“村上春樹論“*12を選んだくらいだ。

このころは本を読んだり映画を観たり、喫茶店やカフェで過ごしたり、ラジオを放送したり、文章を書いたりたまにアルバイトに行ったりして無駄なことの集合体みたいな時間を過ごした。

 

後半の大学3、4年は、もしかして私このまま行ったら社会不適合者になるんじゃない?ということにハタと気がついて、とりあえず動的なコミュニティにアクセスしよう!と思いつく。

ちょうどこの頃mixiが流行していたので、先輩に紹介してもらって久しぶりにコミュニティにアクセスしたのと同時に、就職に向けて新しいコミュニティに入って他大のめちゃくちゃ意識高くてかわいい女の子達と交流したり、いけばな教室に通い始めたり、上下の学年や他大学やいろんな人たちとの交流が活発なゼミに入り込めたので*13、アクティブに活動して行くことになる。

プレゼンを主体としたゼミだったはずだが、初回の自己紹介以降何も発表しないで飲み会だけ参加する幽霊ゼミ生だったことは今の現役の子達には言えない秘密である。

幸い入ったゼミは3年次からめちゃくちゃ就活のフォローをしてくれるゼミでもあり*14、のんきな私でも”大学卒業したら働かないと生きていけないのか〜。そうだよな〜。”というのがわかるようにしてくれたので、就活の滑り出しはわりとスムーズだった。

ただ、元々そんなにもりもり働きたい気持ちがあるわけではなく、バリキャリよりはゆるキャリ寄りのキャリアを積みたいと考えて、有給休暇が取れて女性でもそこそこ働けそうでわりと高い給料をもらえそうだという理由でなんとなく日系メーカー志望してたレベルである。

一緒に就活していた就活コミュニティの女の子達がキラキラして見えて、それぞれ商社だ金融だメーカーだ戦コンだ広告代理店だのという軒並み有名な会社の内定を取ってきているところを見ると、自分の優秀さにはまったく自信がなくてやっぱ働くのムリな気がする、どうしよう…って落ち込んだり、4年の冬まで就活しててほんと死にそうではあったのだけど、ぎりぎりのところで金融系の会社に内定が出て無事に4月から働き始めることになった。

大学4年での卒業は少々あやしかったものの、ゼミの先生がぎりぎり取れそうな単位の教授に口添えしてくれたり、講義で会った教授には挨拶して“卒業したいんだけど、これ取れないと卒業できないんです”的なことを言っておいたり*15、出席足りてない分のカバーレポートを提出したりしてなんとかかんとか4年で卒業した。

部活の後輩には

“絶対4年で卒業できないと思ってたのによく卒業できましたね、どんな手を使ったんですか…”

と呆れられた。

 

激動の20代

入った会社は、想像していた通りのゴリゴリの古き良き体育会系カルチャーの日本企業で、こんなところで生きていけるかしら?と思ったものだったが、案外自身の適応力は高かった。

女の子なのでひどい残業はなかったし、ひどい仕事やら分厚いファイルが飛んでくる現象やら電話で怒鳴られるやらといったことは、ないではないが概ねどこの会社でもそんなものかなあ、という感じで、日々一生懸命働いているとお局さまにもなぜか可愛がられ、わりとナチュラルに職場に適応した。

勉強しないと仕事についていけないので一生懸命勉強したのだが、同期の女の子たちは勉強するよりも合コンとかに精を出していて、いやそんなに頑張らなくても良くない?って言ってたのが不思議で仕方なかったのだけど、彼女たちは今も変わらずに結婚出産を経て同じ会社で同じような仕事をしているので、それはそれでひとつの正解なのだと思う。

その後2年くらいしたら異動になって、業務内容は難易度を増した。

面白い仕事ではあるのだが、かかるストレスは半端なく、それを発散して吹っ飛ばすためにキラキラした女の子達と夜遊びを始めることになる。

お化粧、ファッション、出かける街を一新すると会える人が変わった。

24歳。

ぎりぎり20代前半で、街に出ればかなり楽しめる年齢。

今まで怠っていた分、外見を磨けば磨くほど変わっていくので、目に見える変化があるの良かった。

夜の街はめちゃくちゃ面白く、魅惑的で、それに魅入られて夜の世界へ転職する子もいて、こんな不景気な時代にもこういう華やかな世界があるのだ、という事実が新鮮で足かけ5年くらいは遊んでいたと思う。

その間にお友達はどんどん結婚していって、いくつもの結婚式に出た。

みんな幸せそうでいいなぁ、と思ったけれど、結婚したいという気持ちはそこまで強くなくて、まだまだ稼いだお金を流すように使って遊んでいたいみたいなことを思っていた。

やっぱ結婚したいかも?と気づいたのは28歳くらいになった時だと思う。

周囲から結婚についていちいち言われることにものすごいストレスを感じ、また実家で生活するのに限界を感じたのもこの頃だ。

顔を合わせるたびに祖父母からグチグチ言われることも、肌に合わない育休明けの先輩が戻ってきて事あるごとにぶつかる面倒くささもストレスフルな生活に輪をかけた。

この頃は、よく抱えている問題全部にダイナマイトを放り込んで爆発させちゃえばいっそ楽なのにな、などと物騒なことを思っていた気がする。

加えて、久しぶり会った仕事の飲み仲間(現夫)との飲みが思いのほか楽しく、何もかもから逃げたくなった私は、都会の生活から物理的にいっとき離れる遠距離恋愛をはじめたことで、身体が悲鳴をあげたのだろう。

ある日突然、ぷつんと糸が切れたように涙が止まらなくなって、会社に行けなくなった。

30を目前に控えた29歳の時のことだ。

このあたりのことはこのブログをはじめたきっかけとなっていて、過去のブログに丁寧に綴っている。

 

以下リンクしますが、全く楽しくない話です。

 

         10 11 12 13

14 

 

 

今読み直してもきついな、しかし…

シンプルに書くと、29歳から30歳になる1年のあいだに、鬱になり休職して復職したが結婚して退職した。

身体は限界なのに嵐のような激動の1年で、忙しすぎてほとんど記憶にない。

 

 

リストラクチャリングを経て(2015〜現在)

おまけ(と思って生きる)の人生

結婚して仕事を辞めてからもしばらくは生きていくこと自体が大変だった。

今のところ実行したことはないが、死にたくなったことも1度や2度ではない。

鬱から回復したとはいえ、天候によって気持ちも身体も左右されるし、以前よりも全くコントロールのきかない身体になったことをしばらく受け入れられなかったのだと思う。

いつかは健康体に戻れる*16と信じて疑わなかったのだけど、さいきんようやくそういうことではないんだな、ということが実感としてわかるようになった。

平均的な人よりも少し早く老化現象が起こったようなものなのだろう。

要するに、ピーキーな体調管理のキモは自分の身体の違和感を見過ごさないということなのだろう。

ここ1年は週20時間くらいであれば働けるくらいに回復しており、気候にもそこまで左右されずに過ごせるようになってきた。

銭湯通いと交互浴の効果もかなりあったと思う。

平成から令和へ。

元々アップダウンはありがちな人生だなぁとは思っていたけど、今読み返すとやっぱりけっこうアップダウンあるな。

自分の人生をどうにかしたくて、無茶もけっこうやってきた10代、20代。

それはそれで大変だったけど楽しかったな〜と思う。

結婚して夫婦となったので、自分も大事にしつつ、これからはダーリンも巻き込んで楽しい人生を生きていきたいなあ、思います。

 

新しく、みんなが生きやすい時代を作っていきたいですね!

どんな時代になるのかなぁ。

 

いまのところ、伝統文化をもう少し掘り下げていきたいなと思っていて、ちょっとずつ広めていくお手伝いをできたらなぁ、と思っています。

まだまだ行ってみたい国もたくさんあるし。

 

いまからわくわくしています。

 

最後に、大好きな小説「アムリタ」からとても好きな一文を。

私は私の人生が本当に気に入っていて、申し訳ないくらいだ。こんなの気の持ちように違いないから、頼むからみんなもそう思ってほしい、とたまに心から思う。

 

アムリタ(上) 1.慈雨 より (角川版が好きです。)

 

 

  

 

今後ともよろしくお願いします。

 

*1:なにせ令和になる瞬間はお祝いとかのムードは全然なくて、実家でダーリンと頭文字D〜東堂塾編〜を鑑賞していたくらいだだった(笑)。

*2:朝のズームインのプロ野球のコーナーが結構好きだった。

*3:これが全然一致していなかったことが20年後に噴出して大変な騒ぎかつ祖父母と両親の間に埋めようのない溝が生まれるのであるが。

*4:両親が地元の主要産業である第2次産業に従事している人もそこそこおり、子供の人間関係に親の会社の上下関係が持ち込まれていた可能性は高い。

*5:これだけしごいたのにこんなに勉強しなかったやつはいままでにいないと言われるくらいレベルの低いスコアを記録した。

*6:よくいえば保守的、悪くいえば古くさい。親戚や母が学校の卒業生という子も多くて、いちばん古い子は曽祖母、祖母、母ときて4代目だとか!

*7:隠蔽が下手なのである。そして多少賢い子は比較的自分の自由が効くのでわざわざ問題に突っ込まない。

*8:”赤点とってる人に説教されたくありません!“とか言ってたような…

*9:変わってるけど面白いと思って寄ってくる類友も多く、今でも仲のいい友達は結構いる。ダーリンにiの友達は変人ばっかだけど類友なんだなと言われていたが...。

*10:私は教室で何が起こったかは大体把握しているが傍観を決め込んでいることがほとんどだった。おそらく、日頃の授業態度が壊滅的に悪い私を呼び出して説教しといたらクラスのガス抜きくらいはできるだろうというのと、さり気なくクラスの状況を聞きだしたいという理由で呼び出されていたのだと思う。実際あんまりお説教聞いてなくて、テキトーに聞き流してたし…。

*11:当時はネットにいる中学生ってまだめずらしかったので、けっこうおもしろがってもらいました。

*12:なんであの学科にこの講義があったか謎ではある。

*13:人気ゼミだったので面接方式だったけどなぜか採用された。

*14:前後同期のゼミ生達は実際に優秀でほとんどが大企業で働いている。その結果、優秀な奴が集まるらしいという噂がまわってわりと今も人気ゼミらしい。

*15:逆効果になるタイプの教授もいるので見極めが大事。

*16:徹夜で遊んだあとに仕事に行けるくらいに戻れる